秋田地方裁判所大曲支部 昭和37年(わ)50号 判決 1965年1月29日
被告人 布谷五郎
昭一八・二・九生 農業
主文
被告人を懲役一二年に処する。
未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
一、被告人の経歴、家庭状況等
被告人は、秋田県山本郡二ツ井町において、当時秋田県の木炭検査員をしていた父定五郎(死亡当時六二才――以下父と略称)、母貞(以下母と略称)の三男として生れ、生後間もなく母が乳ガンのため一時他家に預けられ、間もなく父母の許に引取られたが、栄養不良に加えて小児麻痺に罹患したため、発育が遅滞し、また幼くして右中耳炎を患い、以来難聴となつた。その後母の愛育をうけて成長し、昭和三三年三月本籍地の中学校を卒業後、約二年半位商店の店員、鉱山の車夫などをやり、昭和三六年六月、陸上自衛隊に入隊した。
ところで被告人には前記父母のもとに長兄健一、長姉良子、次兄秋雄、次姉京子があるが、父は頑固短気な性格であり、而も酒乱気味のため、木炭検査日には決つて飲酒して帰宅しては妻子に乱暴を振い、母や被告人等は鉞を持つて追い廻る父を逃れるため裸足で雪中に飛び出すようなこともあつた。また父は極めてりんしよくで、被告人は嘗て父から小遣銭を与えられたこともなく、更に被告人は、自衛隊入隊直前水泳の際に左耳鼓膜を破つていたので、これが治療のため、昭和三七年一月、仙台市内東北公済病院に入院手術を受けたが、経過が思わしくなく、全治しないまま同年六月退院したものであるところ、右入院中父に対し屡々送金や見舞方を依頼したが、満足な送金も受けられず、また漸く同年二月中旬母とともに見舞に来た際にも、父は被告人に暖かい言葉をかけるでもなく、却つて旅館に泊れば費用がかかるから病院に泊ると言い出して母と口論し、結局被告人が病院に交渉して病院内に泊らせるような有様であつた。
以上の次第で、被告人の家庭は常に陰欝で争が絶えず、姉二人はいずれも他に嫁したが、次兄秋雄は父との折合悪く昭和三〇年頃家を出て別居し、また長兄健一は、昭和三三年頃から木炭検査員を辞めて秋田県仙北郡西木村下檜木内字中島五五番地の自宅で家屋敷の外田約八反歩と畑、原野若干を所有耕作し農業を営む父及び母と同居し、ともに農業に従事していたものの、父と妻との折合が悪く妻がその実家に帰つたため離婚し、次いで再婚した妻も父との折合が悪くなつたため、結局昭和三七年七月頃父母の許を出て同村内に別居するに至つた。
その結果、前記の家には父母のみとなり、父は自己の老先及び営農を案じ、この上は被告人を家に呼んで将来を頼ろうと考え、被告人に対し、田畑等の財産を全部やるから自衛隊を辞めて家に帰り、農業をしてくれるよう再三手紙で申し送るようになつた。被告人は、初め父の性格等を案じてこれに応ずる気持にならなかつたが、耳病が全治せず、耳漏、難聴等に悩まされ、自己の将来をあれこれ思案するうち、次第に、父が約束を守つてくれるならば、家に帰つて農業をしてもよいとの気持になり、同年一〇月初旬休暇帰省して父の真意を確めたところ、父が確約するのでこれを信じ、同月一九日自衛隊を退職して父母の許に帰つた。
二、犯行
ところが父は、前言に反し、田畑等財産の所有名儀を被告人に書替えてくれる様子も一向にないばかりか、耳病に悩み、不順れな農作業に疲れる被告人への理解が乏しく、被告人に対して来春には嫁をもらつてやる等と言つていたものの、被告人としては父の性格上、嫁をもらつても長兄健一と同じ結果になることは明らかで、父と生活をともにする以上結婚はあきらめるほかないと考えていた。たまたま昭和三七年一一月五日、父が前同村字上檜木内堀内沢の国有林内にある本家布谷吉五郎方のナメコ栽培地の監視のため、同所の山小屋に、同月一五、六日頃までの予定で泊りがけで出かけた後は、稲の取入等の農作業には主として被告人が当らなければならず、耳病に悩み農作業になれない被告人にはかなりの負担で、長兄健一に手伝方を頼んでも応じてくれず、そのため被告人はあれこれ苦慮を重ね、またこの間母から同女が父のため火箸で胸を刺されたり、たぶさを掴まえられて玄関に引きずり出されたりした昔話を打明けられたり等していた。かくする折から、同月一二日夜雷雨があつた際、被告人は、母が「こんなに雷が鳴つて小屋へ雷が落ちたら、ぢい様どうするだろう」と洩らしたのを、「雷が小屋へ落ちてくれないかな。雷が落ちたらぢい様は死ぬだろう」と述べたものと誤聞するや、自衛隊を退職して帰郷したことを悔み、自己の将来をあれこれ思案し、更にこれまで自己及び家族一同が父からうけた冷い仕打を思い起したり、父がいる以上嫁ももらえないこと等を思い合せて、憎悪の余り、浅はかにも父のいる限り一家の円満は望めないものと思いつめ、このうえはいつそ父を殺害しようと決意するに至つた。次いで被告人は、翌一三日夜、母から、同女がその翌一四日前記堀内沢と反対方向にある比内沢へ葺取りに出かける旨聞知するや、その留守中に山へ行き父を殺害して帰ろうと企て、翌一四日午前六時三〇分頃母が葺取りに出掛けるや、午前一一時頃家を出発し、同日午後二時三〇分頃前記堀内沢国有林内の山小屋に到着したが、父の姿が見えなかつたので、この機会に先ず父を殺害した後その死体を埋める穴を堀つておこうと考え、小屋内にあつた唐鍬一丁(昭和三八年押第四号の七)をもつて右小屋の西方約五八米の地点に、約二時間余も費して穴(地表面の長さ約一四〇糎、巾約四〇糎、底面の長さ約一三〇糎、巾約三〇糎、深さ約七〇糎)を堀り、午後五時頃右小屋に戻つた。ところが小屋には父が帰つており、被告人を見るや、「ほう、ムジナが化けて来たか。ムジナ何しに来た」と言つたが、被告人は、初め父の言葉を理解し兼ね、「ムジナではない。五郎だ」と答えたところ、父は更に「今朝方ムジナの雄を獲つたから、雌が騙しに来たと思つた」旨述べるので、小屋内に新しい毛皮が乾してあつたことを思合せ、父の疑いを晴らすため、次兄秋雄が家を建てる板が足りないと言つて来たのでその返事を聞きに来た等と話したところ、間もなく父はその疑念を解いたものか、被告人に遅いから泊つて行くよう勧め、同夜は両名右山小屋内で夕食をともにし一つ布団に就寝した。被告人は、翌一五日午前五時三〇分頃父が食器を洗いに小屋を出た際、しんばり棒でその後頭部を殴打しようか等と考えたりしたが、実行できずにいるうち、午前五時四〇分頃父から帰宅するよう言われたため、父を殺害することはあきらめ、そのまま下山する気になつた。かくて被告人は、父とともに小屋を出て下山の途に就いたが、途中父から野兎捕獲用のわなを見に行こうと誘われるまま、同人に従つて傍道に外れ、小屋から約三〇〇米離れた箇所に仕掛けたわなを見に行つたところ、そのわなが破壊されていた。これを見た父は、腰をかがめて確かめていたが、被告人に対し「これはムジナが針金を切つてわなにかかつた兎をとつていつたのだ。お前本当に五郎か、ムジナでないだろうな。お前が夕べやつたのでないか。どうも五郎のようなところもあるが、ムジナのようなところもある」と執拗に難詰するので、被告人は憤激の余り、いつそ父が自己をムジナと考えているなら、この機会に同人を殺害しようと再び決意するに至り、いきなり父の首を両手で絞めたところ、父は被告人の手を払いのけ、「俺の想像しているとおりムジナのようだ。せつない、せつない。俺はこのままではやられておれないから」と言い、腰にかけていた鉈(前同押号の九)を右手に抜きとつて抵抗したので、しばらく同人と格斗した挙句、その鉈を取りあげてしまつた。ここにおいて父は抵抗をあきらめ、「言うことは何でも聞くから鉈ではやらないでくれ。」としきりに哀願するに至つたが、被告人は、鉈を投げ観念し切つて全く無抵抗となり、被告人のなすがままとなつた父の両手、両足を自己の雨具代りのビニールを結えていた荒繩で縛りつけ、更に手拭で目かくしをした上、約六メートル離れた藪の中に引ずりこんでその場に仰向けに寝かせ、同人がバンド代りに使用していた長さ一一四糎の紐(前同押号の三)をそのズボンから外し、これを二重にして同人の頸に巻きつけて強く絞めつけ、その頃同所において同人を頸部圧迫による窒息により死亡させたものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、本件犯行当時、被告人は耳病等のため心神喪失若しくは心神耗弱の状態にあつたと主張するので、この点について判断する。
前掲証拠によれば、被告人は本件犯行当時、両耳障害のため難聴、耳漏、耳鳴りがあり、しかも当時なれない農作業を一人で処理しなければならない立場におかれ、更に父に対する憎悪反感、長兄健一の無理解に対する不満等が欝積し、そのため煩悶の毎日を送つていたことは十分認めることができるし、鑑定人和田豊治は、「被告人は精神病質的な素因者であるが、犯行の約一〇日前あたりから神経衰弱状態が増強し、また少くとも三日前から発来した一種の異常心因反応の一連の経過中にあつた」旨、また鑑定人武村信義も、「被告人は犯行当時、情性欠如、退避性、小児性等の異常特徴をもつ中等度の人格異常性の上に軽度の反応性抑うつ状態の加わつた精神状態にあつた」旨、それぞれ説明し、いずれも被告人の犯行当時における精神状態が正常を欠く状態にあつたことを認めている。而してこれがため、和田鑑定人は、「犯行時、かなり軽度ではあるが、責任能力に一部欠けるものがあるとみるのが妥当であろう」とするのに対し、武村鑑定人は、「行為の不法を弁識し、この弁識に従つて行動する能力が阻却又は低減していたとは認められない」と結論する。
ところで、前掲証拠によれば、被告人は、昭和三七年一一月一四日、母が葺取りに出た後、その帰宅するまでの間に父を殺害して帰ろうと考えたが、母の帰宅より遅れる場合のことを慮り、わざわざ黒板に、「映画高屋、飯は箱の中」と書いてアリバイを偽装しようとしたこと、山に上る際、ジヤンバー姿のままで、他人にみられると若者であることが判ると考え、短着を携行して途中で着替え、また自転車を路傍に隠したこと、山小屋の手前で人声を聞くや回り道して見付からないよう配慮したこと、父の死体を埋める穴を他人から発見され難く、死体運搬に便宜な地点に慎重に選定したこと、犯行現場において、父を殺害後、死体が発見された際の犯行発覚を虞れ、両手、両足をしばつた繩や、目かくしをした手拭をほどき、これを鉈のさや等と一緒に死体から離れたところに投げ棄てたこと、その後山小屋に戻り、父が売つたナメコの代金を持ち出し、更に犯行発覚を虞れて前日穴堀に使つた唐鍬を投げ棄てたこと、下山の途中人の気配に気付くや、これを退避し、また母に怪しまれることを気遣い、家から持参した短着や手拭を滝へ投げ棄てたこと、帰宅後母に「昨夜角館で喧嘩してしまつたので、誰か訪ねて来たら家にいたことにしておいてくれ」と依頼してアリバイ工作をし、前記ナメコ代金で長靴を買い換え、犯行時履いた長靴は靴跡から犯行が発覚することを虞れて隠したこと等の諸事実が認められ、しかも被告人は、第二回公判以後殺意については否認しているが、その他の点については、警察、検察庁の取調、第四回公判までを通じ、父が山へ上つた後自己が逮捕されるにいたるまでの経過、就中父と格斗の末絞殺するに至つた顛末を、極めて詳細かつ明確に記憶し、判示したところに即して具体的に略々一貫した供述を繰返していることが明らかである。
和田鑑定人の鑑定は、犯行当時の被告人の精神状態に関しては、以上説示した諸点に照らし、これと矛盾する部分も多く、たやすく全面的には採用できないような被告人の鑑定当時の供述のみに専ら依拠し、本件犯行は主として被害的な妄想的念慮を動機としてなされたものとして前記結論を導いているものであり、当裁判所としては俄かにこれに左袒し難い。
これに反して、武村鑑定人は、検察官に対する供述は、被告人が犯行当時自覚に基いて有意味に行動したその自覚を意識的に明瞭な形で表現したものであり、また鑑定人に対する陳述は、犯行当時の行動の意味が鑑定時の被告人にとつて有意味に凝集された形で述べられたものであるとし、両者を対比分析しつつその意義を適確に跡づけ、犯行前日父の死体を埋めるための穴掘りという象徴的行動によりそれまで欝積した被告人の人格深層の強い攻撃欲求は発散消失し、これによつて犯行当日の心理とは一応の区切りが生じたものであり、本件犯行自体は恐怖感に基く所謂近道反応と見ることはできず、被告人の自我の働きにおいてなされた知的、意志的行為と認めるべきであるとし、前記の結論を導いているのである。
以上により、当裁判所としては、前記説示の諸点をも勘案し、武村鑑定人の結論を以て正当と認める。結局本件犯行当時、被告人において是非善悪を弁識する能力又はその弁識に従つて行為する能力を欠いていたと言い得ないことは勿論、その各能力が著しく減弱していたとも言い得ないから、右弁護人の心神喪失、ないし心神耗弱の主張はいずれも採用しない。
(法令の適用)
被告人の判示所為は、刑法第二〇〇条に該当するところ、その犯情について考察するに、本件は、人倫の道に反し、実の父親を判示の如き惨酷な経緯態様を以て殺害した事案で、自らの息子をムジナの化身と信じその手にかかつて奥深い山中に独り死んで行つた被害者の心中はまことに哀れと言うべく、その地域社会に与えた影響も甚大で、被告人の罪責は極めて重いけれども、他面被告人は、犯時一九才九ヶ月の未成年者で、従来前科非行歴なく、改悛の情も顕かであること、前記のとおり犯行時両耳障害等のため軽度の抑うつ状態にあつたこと、被告人は幼時から父に虐待され、また父の横暴が家庭内を常に不和陰欝なものとし、更に自衛隊退職から犯行に至る間の父の被告人に対する仕打も極めて自己本位であり、以上よりする父に対する憎悪憤懣が本件犯行の主因をなしているもので、その動機において同情に値する点も存すること等酌量すべき点も認められるので、所定刑中無期懲役刑を選択したうえ、同法第六六条、第七一条、第六八条第二号により酌量減軽し、その刑期の範囲内で被告人を懲役一二年に処し、同法第二一条により未決勾留日数中五〇〇日を右刑に算入することとし、訴訟費用は被告人が貧困のため納付することのできないことが明らかであるから、刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して全部被告人に負担させないこととする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 柳瀬隆次 阿部季 菅原敏彦)